【私が人を助ける】と【人が助かる】だったら、【人が助かる】を求めたいという話。

今、ハビエル・ガラルダという神父さんの本を読んでるのですが、その中にこんな一節があります。

私が求めるのは「私が人を助ける」ことだと言えば、結局「私」が主人公になって、褒められる。感謝される。

(中略)

ところがイエス様はそうは言わない。「人が助かる」「人が癒される」、そこに「私」は出ない。

ここで、私について振り返ってみると、こんな視点が出てきました。

私は人に「貢献したい」「勇気づけたい」と思っている。

でも、その貢献心に「私」が出すぎていないだろうか。

 

「貢献する」も「勇気づける」も、「私」が動作主です。

だから、私が動作の主体なのだと思います。

ただ一方で相手も、「貢献される」とか「勇気づけられる」という動作の主体なのです。

そこを忘れないようにしたいものです。

  • 「私」という意識が過剰ではないだろうか
  • 「褒められたい」「感謝されたい」というエゴが先行していないだろうか
  • 相手も主体であるという事実を忘れていないだろうか

 

そうした気持ちの点検を常にしていきたいです。