今日はコミュニケーションのあり方について。
特に書く・読むのコミュニケーションのお話です。
文章を読むことは読み手の自由でプライベートな体験であって、
書き手は自分の意図を伝えることを最終的には手放さなければいけない。
最近そんなことを感じたもので。
読書量を増やす
というのが最近の私のテーマ。
たくさん読むために早く読む訓練もしています。
私の速読の手順をざっくり説明すると、
- まえがき、あとがき、目次を読んで本の構成を大まかにつかむ
- この本を読んで何を得たいか、読む目的を決める
- ページをペラペラめくって、気になる単語をインプット
- 最初に戻って気になる部分を拾い読み
- 読んで分かったことをメモする
そんな読み方でいいの?内容が分かるの?と思われるかもしれません。
確かに、筆者の意図が100%分かることはないと思います。
でも、それでいいと思っています。
丁寧に読んだところで、人間は自分の見たいものしか目に入らないし、頭に残らないですから。
そんな読書法をしながら、私の中で急浮上してきた問題があります。
太字ゴシック問題です。
書き手が特に伝えたい箇所を太字ゴシックにする
というのはよくある話だと思います。
でもこれは、読み手の自由を奪っているのでは?と感じます。
というのも、読んでいてどうしても太字ゴシックに目が行ってしまうのです。
書き手の意図は首尾よく達成されているわけですが、読み手の私としては不快感があります。
まるで書き手に頭を押さえつえられて、「ここを読め」と無理やり読まされているような感覚。
ページのどこを読もうが、本から何を学ぼうが、私の自由なはずなのに。。。
だから、私も太字ゴシックをやめたいなと。
私のブログをどう読むか、何を感じるかはあなたの自由なのです。
その自由を太字ゴシックで奪いたくない。(その方が編集の手間も少ないし)
もちろん私の意図をあなたに伝える努力は続けますが、あなたの自由を奪わないようなやり方を目指します。