先日こんなつぶやきをしました。

というのも、元ツイの責任という言葉に強烈な違和感を覚えたからで。

世の中で責任だと思われているものは、本当に責任なのか?と。

 

責任とはいったい何なのか?

私の違和感はどこから来ているのか?

その答えを求めて、手元の大辞林(第三版)を引いてみました。

  1. 自分が引き受けて行わなければならない任務。義務。
  2. 自分がかかわった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務や償い。
  3. 法律上の不利益または制裁を負わされること。(以下略)

 

また、weblioにはデジタル大辞泉の定義としてこのように記載されています。

  1. 立場上当然負わなければならない任務や義務。
  2. 自分のした事の結果について責めを負うこと。特に、失敗や損失による責めを負うこと。
  3. 法律上の不利益または制裁を負わされること。特に、違法な行為をした者が法律上の制裁を受ける負担。主要なものに民事責任と刑事責任とがある。

 

責任とは何か。その辞書的な意味を見るうちに、私の中の違和感の元がだんだんと分かってきました。

自分がやりたければやればいいし、やりたくなければやらないでいい。

そうした自分の自由が意識されていないのではないかと。

責任について考えるとき、周囲の要望だけにフォーカスが当てられてはいないかと。

ウィキペディアではありますが、責任の説明としてこんな記述もありました。

責任(せきにん、英: responsibility/liability)とは、元々は何かに対して応答すること、応答する状態を意味しており、ある人の行為が本人が自由に選べる状態であり、これから起きるであろうことあるいはすでに起きたことの原因が行為者にあると考えられる場合に、その行為自体や行為の結果に関して、法的な責任がある、または道徳的な責任がある、とされる。何かが起きた時、それに対して応答、対処する義務の事。(中略)

自由の無いところに責任は存在せず、責任の無いところに自由は存在しない、とされる。(以下略)

 

責任に関する本も後程ちゃんと読んでみようと思いますが、ウィキペディアのこの説明が一番しっくりきました。

責任とは自由とセットであって、自由のないところに責任はない。

だから、自由の存在に目を向けずに、責任を論じるのはナンセンスである。

冒頭のつぶやきで、責任は「幻」だとしたのは、こうした考えが私の念頭にあったのだと思います。

「自由」という前提がないままに、責任について語られることが多いような気がするので。

 

私は今、どんな責任を背負って生きているだろうか。

それは私が自ら選び取ったものだろうか。

周りからの「それをすべき」「すべきじゃない」という要請に応えているだけではないだろうか。

責任について考え直す良い機会になりました。