【私が人を助ける】と【人が助かる】だったら、【人が助かる】を求めたいという話。
今、ハビエル・ガラルダという神父さんの本を読んでるのですが、その中にこんな一節があります。
私が求めるのは「私が人を助ける」ことだと言えば、結局「私」が主人公になって、褒められる。感謝される。
(中略)
ところがイエス様はそうは言わない。「人が助かる」「人が癒される」、そこに「私」は出ない。
引用元: ハビエル・ガラルダ(2015)こころのティースプーン<下> 聖母の騎士社
翻って、私について振り返ってみると。
私は人に「貢献したい」「勇気づけたい」と思っているものの、そこに「私」が出すぎていないだろうか。そんな視点が出てきました。
「貢献する」も「勇気づける」も、文法上は「私」が動作主で主体です。だからこの場合、私が主人公なのは良いとは思います。
ただ一方で、相手も主人公なんですよね。そこを忘れないようにしたいものです。
「私」という意識が過剰ではないだろうか
「褒められたい」「感謝されたい」というエゴが先行していないだろうか
相手も相手の人生の主人公だという事実を忘れていないだろうか
そうした気持ちの点検は常に必要だなぁと感じます。